博多大黒流
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 ※写真は平成24(2012)年の古ノ一世話当番時のものです。
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博多松囃子
 

 

本年度2024年(令和6年)は古ノ一が松囃子大黒流の世話当番です。
安全な巡行にご協力ください。
久々に規制解除で通常の松囃子行事が遂行されます。
本年度の傘鉾垂れ絵の揮ごう及び絵師の皆さんは以下の通りです。
流傘鉾  町内傘鉾 
阿部宮司 廣門愛由氏 蹴鞠
西川直樹氏 麒麟 日高美鈴氏 空海
西山陽一氏 羽衣 奈須田朋美氏 狂言
中村弘峰氏 紫式部 横山佳美氏 川上音二郎
田中勇氏 大国主命 峰松由布子氏 縁結び
溝口堂央氏 中村信喬氏 お蕎麦屋

大黒流は5月3日櫛田神社に集合する前に流区域を祝って回ります
3日当番町出発は7:00集合写真後すぐです。
順序は古ノ一(当番町)→すノ一→すノ二→すノ三
つノ一→つノ二→古ノ二→麹屋番→寿→川端→下新→川中→
櫛田神社の順に回ります。




元来正月行事として行われてきた「博多松囃子」ばってん現在は5月3日、4日に行われます。
大政奉還後「松囃子」から「どんたく」と名を変えて行われとりましたバッテン福岡市が「博多どんたくみなと祭」の名で市民のお祭りば開催するごとなってからはパレードや通りもん主体の「どんたく」と同時に昔ながらの「松囃子」の名でお祝い行事ば執り行っています。
昔は「松囃子」自体ば「どんたく」て呼んでおりましたが、現在では祭り全体ば「どんたく」と言い福岡市民の祭りとして、その中で同時に行われる「松囃子」は「どんたく」の源流として博多の古来からの伝統行事て言う位置づけです。
【大黒天の言い立て】
いかにそうたん とみのが山に
花が咲いた 見よがし げいりぎっと 見たれば  黄金花が咲いたよ めんたよ かろよ
まことに めんたかりけりゃ まこと めんたかろよ
今年の稲は 燕がすくうて 七穂で八升搗きゃ 
八穂で ここな廻わいた 廻わいたな でいじか あら 
やっさ やっさ やっさ ♪♪
 山崎藤四郎「松山遺事(明治43年発行)」によれば洲崎流レ十五町 正月五日ヨリ当番町ノ子供太鼓ヲタタキ児ノ言立ヲハヤシ昼夜流レ町々ヲ廻リ十四日ハ終夜廻ハル。とあります。
 ※松山遺事(松)は松囃子、(山)は山笠の意味
昔は横町筋の石堂流、魚町流、洲崎流が毎年三福神の当番ば務め、 立町筋、東町流、呉服町流、西町流、土居流の各町が交代で稚児流の当番ば務めとりました。

大黒天
(大黒流)

男えびす
(恵比須流)

女えびす
(恵比須流)

福禄寿
(福神流)

日本で最初の人工港「袖の湊(現在の博多座付近)」は平重盛が作ったって知っとりますか?
写真の袖のごと入り込んだ入り江が「袖の港」です。
現在この上が「昭和通り」やら「博多座」「リバレイン」にあたります。 
島のごと見えるとは現在の「須崎町」あたりです。
鎌倉時代から博多は海外との貿易(日宋貿易)の拠点としてわが国の要所やったとですね。
 
博多松囃子の起源

博多松囃子は、1179年に病没した
「平重盛」に謝ば表すために始まりました。(筑前国続風土記)・・

 「宗湛日記」では
1595年(秀吉が朝鮮出兵している頃・・)筑前領主小早川秀秋の城やった名島城に博多の町人が松囃子ば仕立て年賀の祝いを行ったと記されています。
※小早川隆景は文禄3年(1594年)には豊臣氏から羽柴秀俊ば養子に迎え、翌年の文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居

江戸時代になったら福禄寿・恵比須・大黒天の三福神と稚児が松囃子の本体になります。 これに博多の各町・各人が趣向ば凝らした出で立ちやら出し物で続き、これば「通りもん」て呼びました。現在よく目にするどんたく参加者ですね。
 三福神・稚児・通りもんの構成が現在のどんたくの原型です。
横町筋の石堂流、魚町流、洲崎流が毎年三福神の当番ば務め、
 立町筋、東町流、呉服町流、西町流、土居流が交代で稚児流の当番ば務めとりました。
稚児当番ば務めんその他の流れは「通りもん」として思考ば凝らしたいで立ちで後に続いて行きよりました。
今でちゃ松囃子は大濠の城内ば通って護国神社経由して福岡市役所に表敬訪問をしています。護国神社では5月3日の昼食です。最近は松囃子も回るとこが多くなって昼飯もゆっくり食べられんとが辛かですね。
図は筑前名所図会より
昔は三福神・稚児・通りもんは右図のごと揃ってまずお殿様がおる城内にお祝いに伺った後博多の街に繰出しておりました。
お互いの町(流)ば表敬してお祝いに伺うため石堂流(現恵比須流)は漁師町である須崎流(現大黒流)ば祝うため相手に縁起の良か「恵比須さん」ば掲げ「今年も大漁で有りますように」と言い立てて祝いました。逆に須崎流(現大黒流)は「大黒さん」ば掲げ「今年も豊作で有りますように」と言い立てて祝いました。これが「恵比須流」「大黒流」の名の由来です。


博多松囃子の歴史

 1599年、小早川秀秋が加藤清正に年賀の使者ば出した時、使者が鉢合わせした松囃子一行と口論となり、松囃子の者が侍の一人ば馬上から引きずりおろして殺してしまいます。

博多んもんのやりそうなこと・・これで松囃子は中止されます。
その後、福岡藩2代藩主黒田忠之により、中止されとった博多松囃子は1642年に復活します。

その頃は松囃子は福岡城に福岡藩の藩主を表敬するため正月15日に赴く年賀行事として行われてきました。松囃子はその名の通り以前は正月の行事やったとです。
それ以前は名島城まで表敬しよりました。

現在もどんたく期間中に山笠でおなじみの「流(ながれ)」という単位で各流、博多の原住民?によって行われています。

現在「福神流」「恵比須流」「大黒流」「稚児流」の四流が当番ば務め、福博の町の役所(お上)やら商店、会社、地域の役員宅などば祝って回りパレードではどんたくの源流として馬上の各神様ば守るごと先頭でスタートば務めます。
「博多ぶらぶら」でおなじみの「傘鉾」も一緒に・・
「傘鉾」の下ばくぐるとその年「無病息災」で過ごせるといわれます。

 明治になり再び「金銭浪費、文明開化にそぐわん」ていう理由で山笠と共に禁止されます。お上は殿様やのうて天長節(天皇誕生日)ば祝うごと・・ていう御触れば出しました。


どんたくの由来

 それならと博多町民は天皇家のお祝い行事(紀元節など)にかこつけて「どんたく」と名前ば変えて町にくり出します。兎に角お祭り騒ぎが大好きな博多んもんです。

「どんたく」とはポルトガル語の「ゾンターク(休日)」がなまった言葉で、英語で言えばホリデーて言う意味です。
昔、午後からお休みの土曜日やらは「半ドン」て言いよりましたばってん、これは「半分どんたく」からきた言葉です。

先の大戦でまたもや松囃子は山笠と共に中止になりますが「復興祭」で山笠と共に復活します。
こげな歴史のあるけん「東北大震災」で各地で祭りの自粛が行われましたばってん博多ではいち早く「博多松囃子」の開催ば表明し「頑張れ東北・日本」ばテーマに開催されました。

 その後1949年からは前年に制定された憲法記念日に合わせて5月3日と翌4日を開催日とし現在に至ります。

福岡市は「博多どんたくみなと祭り」て言うお祭りば開催するごとなり通りもん中心の市民の祭り「どんたく」して定着し、「松囃子」は「博多松囃子振興会」の手により今も同時期に古来からの伝統行事として行われています。

ちなみに「山笠」は「山笠振興会」が取り仕切ります。こっちは「福岡市」の肝いりが無い分博多住民独自の自治で執りおこなっています

いわゆる「三福神、稚児」が松囃子であり「通りもん」がどんたくて言う呼称ですばってんが現在は全部ひっくるめて「博多どんたく」て呼んどります。

松囃子がいかんなら「どんたく」て言おう
裸でそうつくとがいかんなら「法被」ば着ろう(山笠)

時代時代の規制にその時の時代に合わせて気転ば利かせて続けてきた博多の祭です。



現在のどんたく

現在は5月3日、4日の二日間、福岡市民の祭り「博多どんたくみなと祭り」として行われています。

「国選択無形民族文化財」に指定されとう「松囃子」も同時に行われます。
「松囃子」は事前に傘鉾の御神入があり、3日は早朝から各流内を祝った後、三福神、稚児とも博多の総鎮守「櫛田神社」でお祓いば受け午前9時に「福神」「恵比須」「大黒天」の順で神社ば出発し福博の商家や公共団体、神社仏閣、町の役員宅やらにお祝いばして回ります。
一方、どんたくは従来の日本舞踊や、にわか、三味線などの古典どんたく隊「通りもん」は関係各家庭、お店ば回り、芸ば披露して祝ぅて回ります。その他一般参加のグループは福博の町ば練り歩いたり、各所に設けられた「宴舞台」で芸ば披露して回ります。
同時にパレードに参加したら採点も行われます。
ちっちゃな可愛いお子様どんたく隊から会社、商店、学校、趣味のグループ、他の地方からも・・はたまたおかまバーの綺麗どころまであらゆる層が参加します。
あたしゃ露出度の多か「どんたく隊」が好いとります・・

3日の午後のパレードでどんたくは幕ば開けます。
このパレードには「三福神」「稚児」もどんたくの源流として、先頭で参加します。「三福神」「稚児」はパレードの後、各行事に戻りますばってんがパレードはその後半日続きます。

4日も3時からパレードが始まりますばってん松囃子はこの日は参加しまっせん。
 どんたくは四日夜の市民総踊りで幕ば閉じます。
福神、恵比須、大黒の三福神は揃って町ば練り回りますが稚児流だけは別行動で市内各所所で稚児舞ば披露しております。
松囃子の衣装

現在「松囃子」は「福神流」「恵比須流」「大黒流」「稚児流」が世話当番ば務めます。
「稚児流」だけは衣装が異なりますばってん福神、恵比須、大黒は同じ衣装でそうつきます。
長着(着物)ば尻っ端折りにして、足元が細うなった昔の旅装束の立附袴(たっつけばかま)ば履き、肩衣(かたぎぬ)、昔の侍が殿中に入るとき肩が飛び出したとば着とりましょうが・・アレが肩衣です。
昔はお正月のお祝いに庶民が場内に入りよった名残です。
足元は白足袋に鼻緒が紅白の杉下駄ば履きます。
それぞれの流で肩衣、袴の色やらデザインは異なります。
襟には稲穂笹と縁起鯛ば斜めに突っ込んだとが大黒流、恵比須流、
腰に軍配ば差したとが福神流のいでたちです。

現代ではその方面の方しか「袴」やら履くこた無かでしょう。
そして履くことのあっても松囃子ほど長丁場ば歩(あゆ)んでそうつくこた無かでしょう。
松囃子は二日間に渡り福博の街中ば祝うて歩きます。
昔と違うて足元はコンクリですけん下駄の歯はいっぺんで擦り切れますもんね。
また、トイレにも行きとうなります。「小」の方はまだ良かばってんが「ウ○コ」ばしとうなったらオオゴトです。袴の長か紐ば解いて用ばたしよって紐が便器に・・・・ここまで!

肩衣も着慣れんもんは車幅間隔に戸惑いますったい
肩衣はずして、ズックに履き替えたらそら気軽で爽快ないでたち
昔の旅装束・・て言うとが分かります。


   

 
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