博多大黒流
このいちへようこそ
 
舁出しさぃもどる

 

現在博多祇園山笠、博多松囃子の当番町「大黒流」は博多川東部沿岸の十二の町で構成されとります。
「須崎町一区」「須崎町二区」「須崎町三区」「対馬小路一区」「対馬小路二区」「古門戸町一区」「古門戸町二区」「寿通」「麹屋番」「川端」「下新川端」「川端中央街」の十二ケ町です。

この中の「古門戸一区」ば通称「古ノ一(このいち)」と呼んでおります。
行政上の古門戸町一区は山笠の土居流の区域も含んどるけん古門戸町一区の大黒流の区域ば「古ノ一」と呼んでおります。
他にも「須崎町一区」は「すノ一」「対馬小路一区」は「つノ一」ていう具合です。

山笠行事ば終えて舁山が山小屋に戻り手一本が入ったげんたいあちこちで・・・「すのいち〜」「しもし〜ん」「このいち〜」て」招き板ば掲げておらび(叫び)ます。
それぞれの町ごとに集まって自分たちの町へ帰るけんです。

昭和40年までは「十六ケ町」で構成されておりましたバッテン
福岡市の悪名高い「町名町境改正」によって町が合併されて新しい町名になっております。

このサイトは博多のひとつの町「このいち」に所属する「ちどりあし」こと博多のおいしゃんが博多の歴史やら町の紹介、祭りの紹介やらばあえて「博多弁」で紹介するサイトで
す。

このいちの場所はこのあたり
 
大黒流に所属する古ノ一(古門戸町一区)は蔵本町から天神まで博多ば横につっきる昭和通りから
ホテルオークラ辺りから北に伸びる元対馬小路筋の東側の区域に当たります。
目印は昭和通りに面した「太兵衛鮨」とその奥の「うまか遊び庵」。
詳しい位置は「大黒流総合サイト」で見ちゃんなっせ・・・

もともとは博多の海岸線に広大な敷地ば持っとった「妙楽寺」の上手のところに古い門のあってその辺りば「古門戸町(こもんどちょう)」て呼んでおりました。旧古門戸町は現在の「古ノ一」の詰所の丘(南)側の昭和通り真ん中辺りの場所になります。昔、会所がありその中に馬継所もあったて言います。

先の大戦の福岡大空襲で焼け野が原になりその後道幅が広い「昭和通り」が通り旧古門戸町の大半は無うなってしまいました。
古門戸の下(シモ)北側の縦筋が「妙楽寺新町」その下(シモ)北側の縦筋が「妙楽寺町」になります。
※博多では海の方ば下(シモ)丘側ば上(カミ)て呼んでおります。(太宰府に近い方が上(かみ))


現在の古門戸町
 
古ノ一(このいち)は旧町の「中対馬小路」「上対馬小路」「妙楽寺(新)町」「古門戸町」の
4つの町がひとつになった町です。

旧妙楽寺町(空襲で全町焼失)
現在、御供所にある「妙楽寺」は1300年代はこの地に有りました。
そのため元禄の頃は、「妙楽寺町」「妙楽寺裏町」「妙楽寺前町」と言う名前が文献に出てきますが江戸末期には裏町の名は無うなっておいしゃんが生まれた時は住所は「妙楽寺町」と「妙楽寺新町」やったです。「妙楽寺町」は門前町であったため「妙楽寺前町」と称されることも有りました。
横町筋から岡側の縦筋の向かい合わせが「妙楽寺新町」です。

旧古門戸 旧妙楽寺 旧上対馬小路
「妙楽寺新町」は戦後「妙楽寺町」
に統合されました。その法被は
現存しておらず、この法被は
福岡市博物館によって
写真やイラストを元に作成された
レプリカです。
旧中対馬小路 旧妙楽寺(新町)福岡市博物館蔵

旧古門戸町(空襲で全町焼失)
妙楽寺新町の上(カミ)に当たる縦筋で構成され、江戸時代は会所並びに馬継所のありました。昔この辺りは妙楽寺の境内で古い門の跡のあったけん「古門戸町」て名の由来です。
戦後、町のほとんどが「昭和通り」で無うなってしまいました。

旧対馬小路
博多で一番長い縦町筋で幕末の頃は戸数約100あったて言われます。
この筋のすぐ北に浜があり、対馬藩の倉庫、屋敷のあったけん町名になりました。
下、中、上の区域のうち下対馬小路だけが現在の「古ノ二」に入り、中対馬小路、上対馬小路の東側が「古ノ一」に入りました。現在の対馬小路はシモのシモで大下(オオジモ)と呼んどったところになります。

妙楽寺町、古門戸町と隣り合わせと背中合わせになる土居流の行町、浜小路、も現在の「古門戸町一区」にはいります。
行町はもともと「東長寺」があったところで町名は「勤行の町」から来ております。
「浜小路」は大昔は海端に面した町です。昔のおいしゃんは「浜の小路」て言いますもんね。そいけん追山コースの北限はここ浜小路までですね。

旧横町筋から北側も古門戸町やばってんここは「古門戸町二区」て呼んでおります。
やっぱり、「妙楽寺町」「下対馬小路」「倉所町」がいっしょくたんになって東側は土居流の「西方寺前町」も含まれます。
「倉所町」は秋月藩(黒田藩の分家)の蔵本があったところでその会所で秋月産米の出荷所業務やらばしよったところ。倉所町の名称は江戸時代にはまだ無うて明治26年に町名になりました。
住民は倉所町ば主張するも妙楽寺に編入される。ばってんそれば不服とし20年後に倉所町が認められました。

いずれも由緒ある名前の町名ですばってんどうして統合されて「古門戸町」の名が残ったとでしょう?

それはね・・・
どこの町も「由緒ある自分の町ば残したい」て言うとはおんなしです。
どこのどなては言いまっせんばってん、
それぞれの町に有力者の頑固なおいしゃんたちのおって中々話はまとまらん
そこで、一番所帯数の少なくて、やかまし屋のおいしゃんのおらん
「旧古門戸町」の名前ば残したら文句はなかろう・・・とあいなったわけです。

ちなみに福岡市の最初の案では古門戸町は「大和町」ていう候補もあったげなデス。
ピンときませんやね・・

このページのトップへ