博多大黒流
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古(いにしえ)から大陸との交易で栄えた「博多」は、その地の利もあって常に時の権力者による係争の地であったとです。
戦国時代末期も大友氏、大内氏やらの戦国大名の争いの場となり、大友と島津の戦いでは撤退する島津軍の手により博多は焼け野原となったとです。
1587年(天正15年)九州ば平定した豊臣秀吉は、のちの唐入り(朝鮮出兵)ば目論見、その前線基地として博多の町の復興事業に取り組みました。
博多の太閤町割りは黒田官兵衛(孝高)に立案させ、石田三成等が復興事業にあたりました。
町割りの草案は神屋宗湛の義兄にあたる聖福寺109代の住職、玄蘇景徹によって考えられたといわれとります。
その際、博多の町ば禅宗の七堂伽藍に例え、弥陀の本願ば込めた「七七四十九願」、また僧侶が身に着ける「七条の袈裟」にもなぞらえて町づくりをしたていわれ、
七番(竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、麹屋番、倉所番、釜屋番)
七小路(金屋小路、市小路、奥小路、浜小路、対馬小路、古小路、中小路 )
七口(浜口、象口、竜口、川口、堀口、蓮池口、渡唐口 )
七堂(茅堂、奥堂、脇堂、普賢堂、辻堂、瓦堂、石堂)
七厨子(奥堂厨子、普賢堂厨子、瓦堂厨子、茅堂厨子、麹堂厨子、観音堂厨子、文珠堂厨子 )
七観音(乗寺観音、妙楽寺観音、龍宮寺観音、聖福寺観音、東長寺観音、観音寺観音、乳峯寺観音)
の四十九の町ば博多に配置しました。
そしてこれらば数ヶ町〜十数ヶ町からなる町の集合体(町組)に分けて組織し、縦筋に「市小路流(呉服町流)」「東町流」「西町流」「土居町流」、横筋に「魚町流」「石堂流」、福岡に一番近い博多川沿いに「須崎流」を配置したとです。これが博多の七流。博多の自治組織「流」の始まりですと。
流としてはその後、厨子流、新町流(岡側、浜側に配置)と増え博多の町全体が「流」に属しました。ただし、博多の中で「柳町」と「寺中町」の二ヶ町だけは流に属しておりません。

博多は町奉行のもとで、有力町人の中から複数人の年行司が選ばれ町政を運営しとりました。
そして「流」は年行司の下部組織として各々自治を行い、その中で流ごとに年中の祭り、松囃子や山笠をたてました。
この時点で、自治単位の流と松囃子と山笠の運営単位が一致しましたね。
現代のごとお祭りのための「流」では無かったということです。

松囃子では魚町流が「福神様」、石堂流が「恵比須様」、須崎流が「大黒様」をたてて練り歩いたのが、今に残る「福神流(魚町流)」「恵比須流(石堂流)」「大黒流(須崎流)」の流名の由来です。
松囃子において、石堂流が漁師まちの須崎流へ大漁ば祈念して「恵比須様」ば立てて表敬、一方須崎流は、石堂流へ五穀豊穣ば祈念して「大黒様」を立てて表敬しました。それが二つの流の名の由来と言われとります。
お互いの町の性格と逆の人形飾りがそのまま流名になったのは面白いところですね。
その後、魚町流も縁起を担ぎ「福神様(福禄寿)」を立てたのが「福神流」の名の由来であります。
その他の4流は毎年持ち回りで、各流の町内が順番に「稚児流」の当番を務めよりました。
従って稚児は町数も多いため、当番が回って来るのが数十年に一回でありました。
昭和の町界町名改正後、稚児流は「稚児東流」「稚児西流」により引き継がれとります。
一方山笠では、藩政時代、七流のうちひとつの流が持ち回りで「能当番」ば務め、残りの六流が山笠行事を執り行っておりました。
新町流、厨子流は松囃子、山笠を出しとらんで厨子流は追山での能舞台の前の桟敷ば作りよったげな。

山笠についての余談ですばってん、明治38年(1905年)の追山馴しにおいて、雷と太鼓ば聞き間違えて山留の竿が一分前に上がりそのまま福神流が舁きだし、後続の山が次々と舁き出し大混乱に陥り、その責めを負って翌年から福神流は山ば建てずに毎年能当番を務めるようになったといいます。
しかしながら「福神流」という組織が消滅したわけではなく、松囃子行事には現在でも旧福神流の区域において参加しとります。


現在の舁山七流
「中洲流」
戦後の昭和24年から(この年は飾り山のみ)加わった流で中洲1〜5丁目で構成される流です。白に青の「中洲」の文字を染め抜いた流統一の水法被を用いとります。戦後、博多山笠が再興された際、旧博多七流に新たに五流が加わったなかの一つで今や70年の歴史ば刻んでおります。
舁山と同時に流独自の飾り山も持ち舁山は「引き出し山型式」であります。中洲歓楽街に聳え立つ山小屋はその高さをも誇り観光客へ絢爛豪華な飾り山ば公開しとります。
二代目井上吉左衛門氏、さらに五代目会長の井上雅實氏と親子二代の博多祇園山笠振興会会長ば輩出しております。

「西流」
大博通りの西側の縦筋で構成される流。
竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、釜屋番と5つの「番」がついた町があったごと町割り当初から続く伝統ある流です。
昭和41年の町名町界改成により岡流、櫛田流、呉服町流、福神流の一部が編入されたため名称が「西流」と変更になりました。

「千代流」
御笠川東岸の千代小学校、千代中学校の校区で構成されます。
博多祇園山笠には戦後の昭和25年から参加。統一の水法被は白に(千代)の文字ば染め抜いたもの。
舁き山と飾り山ば持っとります。。そのうち飾り山は流内の西部ガス本社横に立ち、その高さは一二位を競います。山台も舁山、飾り山は別個です。千代流単独の子供山笠も催しとります。

「恵比須流」
旧石堂流。もともと石堂橋から西さぃ抜ける旧博多六町筋の東側の横筋「管内町」「中石堂」「中間町」「綱場町」と御笠川西岸に平行した「堅町筋」「蓮池町」「金屋町」で構成されます。町割り当初から続く伝統ある流です。
昭和41年の町名町界改成により区域が減少し参加者も減った時代もありましたばってん、どっこい現在も歴史ある流として七流のひとつとして参加しております。
櫛田入のコース取りの美しさは天下一品です。

「土居流」
旧土居町流。町割り当初から続く伝統ある流です。
もともと北は西方寺前町から南は社家町までの縦筋と上新川端町で構成される流でしたばってんが昭和41年の町名町界改成によりこの流の町名は無うなってしまい、背割り方式から街区方式に町割りが変わったけん流自体が無くなり解散。ばってん一部有志の手により40年、41年には保存会として山笠に参加、42年に正式に流として復帰しました。
現在も伝統ある流のひとつとして参加し追山でも常に上位の成績を残すほどになりました。

「大黒流」
旧須崎流、町割の頃からの伝統ある流です。「古ノ一」はこの流に属します。
博多川東岸一帯の12の町で構成されとります。各町に町総代、取締は1名ずつで12の町の合議で運営されております。
古くからの仕来りを色濃くす流です。

「東流」
旧東町流、大博通りの東側の縦筋で構成される流。
旧町ごとに参加しておりますばってん、当番法被、水法被は流れで統一。飾り山も建て「引き出し山型式」であります。昭和41年の町名町界改成により呉服町流の東側が吸収され流名が東町流から東流に変更されました。
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