博多大黒流
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昭和六十年
【まとい踊りに「山笠」登場健夏まつりを楽しくする会結成】
昭和五十九年のNHK特集「熱走!博多山笠」を見て感動した青井愼介は、実青会の場などで仲間達に「あんな熱気のある祭がやりたいな。」と話していた。
市の基幹産業である石炭産業が衰退していく中で、「何とか街に活力を」と考えられていた頃である。

「熱走!博多山笠」のビデオだけを頼りに山笠作りにとりかかったが、
山台を木組みする技術が無く鉄骨を溶接して出来上がったのは
弘前の「ねぷた」のようだったと言う。
この山笠はその年の健夏まつりの「まとい踊り」に参加し
祭本番の当日はビデオの中で下新川端の役員がそうしていたように、
泊まり込みの合宿まで摸したという。
興奮冷めやらぬ十月「健夏まつりを楽しくする会」が発足する。

 この年大黒流は三番山笠、すノ一当番町取締小林俊昭氏の年である。
 
 
 昭和六十一年
【木製の山笠登場山笠人形は発泡スチロールの「大黒天」と「スーパーマリオ」】
「健夏まつりを楽しくする会」が中心となって、
「まとい踊り」に山笠を出すこととなる。
まだ流名はなく「一番流」「二番流」として行った。
この年から初めて山笠人形が登場。
看板屋さんが発泡スチロールで人形の制作にあたったという。
山台はビデオをだけを参考に山笠に映った人の寸法を割出し
本物の博多山笠そっくりに見えた。
棒締め等の技術に不安が残ったため要所をボルト締めするなどの工夫をしていた。

博多の川口屋染工店から本物の締込と土居流の法被も何着か取り寄せた。


この年大黒流は二番山笠、つノ一当番町取締楢ア尚弘氏の年である。
 
 昭和六十二年
【各町内が続々と山笠に参加】
北日本流、栄流、宮元流、緑幸・中央流の四基の山笠が登場、
二本の山が太鼓の合図とともにタイムレースを行ったが
怪我人が続出、翌年からこの方法は中止となる。

この年大黒流は一番山笠、麹屋番当番町取締松永邦清氏の年である。
 
 昭和六十三年
【まとい踊りから健夏山笠へ】
健夏まつりの行事名が「まとい踊り」から「健夏山笠」に変更となる。
この年は一番山笠北日本流「大黒天」二番山笠宮元流「孫悟空」三番山笠栄流「桃太郎」四番山笠緑幸・中央流「武田信玄」と四本の山が参加した。

大黒流は七番山笠、我が古ノ一当番町浦ア要一氏の年である。

 
 平成元年
【芦別健夏山笠振興会設立】
「健夏まつりを楽しくする会」から5名が下新川端春口栄治氏の力添えにより
博多の山笠を視察、二名が西流冷泉三区から三名が大黒流下新川端から参加した。
この年から緑幸流と中央流が分離しそれぞれの山を持つようになり
5本の山笠が出そろった。
まつり後の9月8日「健夏まつりを楽しくする会」が解散
「芦別健夏山笠振興会」が創設され本格的に芦別健夏山笠が動き出す。
当時は振興会に会員として加入し、希望する流に所属するという形で、振興会本部、中央流、栄流、緑幸(みどりさいわい)流、宮元流、北日本流があり振興会本部付として市役所職員のグループがのちの「市流」となる「市役所若手の会」を結成する。

振興会の紋章(博多の祇園紋のようなもの)を「五つ松木瓜」に決定する。
祇園宮の紋の周りにアイヌが災難病気除けとして昔から崇拝していた「黄金水松(こがねみずまつ)を流の数の五つ配したオリジナルの紋である。


この年大黒流は六番山笠当番町取締竹ヶ原政徳氏の年である。
 
 平成二年
【追山始まる。資金造成委員会、ヒヨカタ設置、会員の博多派遣事業が始まる。】
当番法被も久留米絣を取り寄せ用意される。
総代、取締、赤手拭、若手頭用の手拭も作られた。

山笠建設の体制がまだ整っておらず
連日午後十時、十一時過ぎの作業もヒヨカタはカップラーメンをすすりながらの
作業であったと言う。
ヒヨカタへの特別待遇は翌年への課題となる。
「芦別市まちづくり人材育成国際交流促進事業」を利用して、
会員が大黒流下新に四名、西流冷泉三区に二名が参加し、
お汐井取りから朝山までを体験する。
この年追山が登場、およそ1.2kmのコースで栄流は宮元流を追い越し、
北日本流に迫る勢いで一位でゴールする。
これ以降途中で止まる流は無くなったという。


大黒流は五番山笠当番町すノ二取締増井雅臣氏の年である。
 
 平成三年
【流総代制度導入、山笠人形導入】
振興会本部が各流に指導者を派遣する方法から山笠の自治精神に則り、
流主体の運営に向けて踏み出し総代制度を導入する。
「市役所若手の会」が「市役所流」と認定される。

ヒヨカタの地位が高まる。
ヒヨカタには夕食が出されるようになった。
作業開始日、棒締め終了日には鰻を食べるのが恒例になり
ヒヨカタの結束は強まっていった。

この年は大黒流下新に総勢十二名が派遣された。
この年は博多からも技術指導のため
下新から春口栄治氏と吉井敬一郎赤手拭が芦別の追山へ参加した。
NHK特集「熱走!博多山笠」のVTRを見ているところに出演している二人が到着したので大いに盛り上がったという。

本物の山笠人形を乗せたいという気持ちから十一月に博多を訪れ博多人形師「亀田均」氏を訪れ山笠人形三体の制作を依頼する。

この年大黒流は四番山笠当番町川端取締樋口勝久氏の年である。
 
 平成四年
【博多に認められた芦別、山笠人形「大黒天」「織田信長」「金太郎」】

人形師亀田氏が芦別へ出向き人形の飾りつけ及び「山笠講演会」を行う。
その様子を密着取材したNHKが全国ニュースとして放映したのが
「博多祇園山笠振興会」で問題になる。「伝統ある山笠が北海道にでたのはなぜだ?」と。
急遽、当時の青井会長と横市副会長が博多に赴き櫛田神社で
博多祇園山笠振興会との顔合わせとなる。
当時の博多祇園山笠振興会会長井上雅實氏の
「芦別のことは前会長樋口氏からも聞いています。手一本入れます」の言葉により
芦別健夏山笠は博多に認められる。
こそこそ真似するのではなく、筋を通して博多に認められたのである。


この年大黒流は三番山笠当番町すノ三取締波多江克之氏の年である
 

 その後平成五年には亀田氏による飾り山建設、平成七年には追山馴しも始まる。
大黒流を中心に博多と芦別の人的交流が続き平成十二年には大黒流全町内の現役取締が
訪芦した。お互い同士山笠を通して博多から認知を得た兄弟山笠として現在に至る。
このころから博多の各流から個人レベルでの訪芦も増え現在に至る。
もともとは北大黒流(旧宮元流)、緑幸流、北流(旧北日本流)、栄流、中央流の五流であるが人口の減少から、現在舁山笠を運行しているのは「栄流」「北大黒流」「緑幸流」の三流、他に飾山笠を建設する市役所主体の市流(旧市役所流)があるが追山には参加せず各個人の町内で参加する。「追山馴し」のみ「市流」と「五流合同」でのタイムレースが行われる。
写真は平成十三年RKBの「芦別健夏山笠」を題材にした記念番組の制作で
レポーターとして芦別を訪れた長谷川法世氏と人形師亀田均氏。
手前は現古ノ一町総代新島啓二氏。
 

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