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博多の歴史とまち歩き
 
 
このページでは博多のまちの色んなスポットやら
歴史ばご紹介します。
まずは東の千代の松原あたりから博多のまちさい歩んでいきまっしょうかね?  

吉塚 濡れ塚 博多大水道 博多六町筋 官内町・中石堂 綱敷天満宮
鏡天満宮 川端通 土居筋 対馬小路筋 西流・東流(編集中)

吉塚 
もともと妙見て言いよった場所でその昔は大きな松が一本たっとった千代の松原の海岸やったとこです。「妙見」ちゃあ「妙見大菩薩」のことで北斗七星ば信仰する宗教て聞きます。今も妙見の交差点わきに「千代森神社」 のあって「北辰宮」が祀ってあります。ここは7本の道が合流する要衝やったけん古くは「七ヶ辻」て呼ばれとったげな。
さてさて「吉塚」ですばってんが・・・・
時は戦国時代、島津が九州ばわがもんにしようと暴れまわりよったとき、大友軍は「立花宗成(立花道雪の娘婿、秀吉曰く日ノ本一のもののふ)」が孤軍「立花城」ば最後の砦として守っておりました。
その前に宗茂の父「高橋紹運」のああ壮烈岩屋城は有名なお話であります。
秀吉に援軍ば頼みやっとのことで腰ばあげた秀吉の10万の「九州征伐軍」がやってきます。
一気に島津軍は逃げて行くとですばってんが島津側の武将、星野村の「星野吉実」と「吉兼」は最後まで戦うてこのあたりで壮絶な討ち死にばしたそうな。
それがあんまりあっぱれやけんていうて相手側の武将が二人の首ば手厚く葬ったとげなです。それが「吉塚地蔵尊」で町の名の由来です。
きしくも星野兄弟は「妙見信仰」やったていうことです。
 

濡衣塚
吉塚から千代の松原(現在の県庁、東公園辺り)抜けて石堂橋のほとりから国道三号線ば渡るとき、都市高速 ば見上げてみなっせ。
お汐井取りの石堂橋出発んとこです。
ここは唯一山笠(千代流)が都市高速の下ば潜り抜けるところ。
神様の上ば車が通ったらいかんけん都市高速の下に「雲」のプレートが取付ちゃあとば知っとったですか?
国道三号線ば渡って石堂川手前の歩道ば左さいすぐんとこ御笠川(旧石堂川)沿いに「濡衣塚」のあります。
あの「濡れ衣」の言葉のルーツですたい。

聖武天皇の時代(735年〜749年頃)。
佐野近世ていう国司が筑前に赴任してきました。
近世にゃぁ春姫ていう美しい娘がおりました。
春姫にはママ母のおって近世があんまり春姫ば可愛がるけん
ある日、嫌がらせに漁師の釣り衣ば盗んで眠っとう春姫にこそ〜と掛けたとです。
「釣り衣は春姫が盗んだ」ていう噂ば流します。この噂ば聞いた近世が春姫の部屋ば覗いたげんたい濡れた衣ばかぶった春姫の寝とるやなかですか。
それば見て逆上した近世は怒りに任せて春姫ばその場で斬って殺してしまいました。(それぐらいでなんもそこまでせんでもですね〜)
その翌年、近世の夢に春姫が現れ歌ば詠みます。

「ぬぎ着する そのたばかりの濡衣は 長きなき名のためしなりけり」「濡れ衣の 袖より伝う涙こそ 無き名を流すためしなりけれ」

この句ば聞いた近世は実は「ママ母が釣り衣ば春姫に掛けた」「娘は無実やったったい」て悟ります。近世は悔恨の涙ば流し、姫ば供養するため石堂川のほとりに7つのお堂ば建てて出家したていいます。
これが「博多七堂」の始まりですね。
そのひとつが「石堂」です。

さて愈々、石堂橋渡って博多さぃ入っていきまっしょう。

  博多大水道  
 
これは古渓町(現奈良屋町)にある博多近隣古図の石碑
文化9年(1813年)の頃、昔の地図は今と違い上下が逆で下が海です。
 
  (※昔、あたきの先祖はこの古渓町で料亭しよったそうです。)  
  中央に横に走る青い細か川は慶長五年頃作られた「博多大水道」て呼ばれよった運河です。この脇に商店が立ち並び始め、だんだんゴミもたまって下水溝のごとなってきたけん大石で蓋ばして出来上がったとが今(もう無うなったばってんが)の「寿通り」です。あたきが子供のころはまだ川端の博多川んとこにこの大水道の出口のありましたもんね。この蓋ばした大石は現在でもお櫛田さん行ったら見られますばい。  
 
 
  博多六町筋  
  石堂橋渡った先からの横筋が昔の博多のメインストリートで
「博多六町筋」て言いよりました。
官内町→中石堂→中間町→綱場町→掛町→麹屋番までですね。
 
   
     
  ちなみに下の図は昔の追い山コースです。  
 
 
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  官内町・中石堂(石堂町中)  
   
  官内町は前述した「濡れ衣」の「佐野近世」さんの館のあったけんその名が由来やそうです。現在、山笠では恵比須流の所属になります。
お茶屋の「光安青霞園」さんがあるところです。

この官内から海の方さい川沿いの細い縦筋にたくさんの家が立ち並んできたけん竪町(たてちょう)ていいます。竪町は「上」「中」「下」で構成されとります。
官内町には「一行寺」て言うお寺さんのあります。
ここに博多にわかに登場する「一行寺」のあります。
テケテンテンテ〜ン♪
「あ〜た日本で一番寺の多か町はどっかしっとうな?」
「そら知っとうくさ、なんて云うても京都やろうもん」
「なんいいござすな、知らんかったと?博多たい」
「博多に寺の多かて言うても京都ほどや無かろうもん」
「い〜や博多には「一行寺」から「萬行寺」まである〜」
テケテンテンテ〜ン♪


官内町抜けたら中石堂(旧石堂町中)に入ります。ここに石碑のあります。
人形の「おくむら」さんの駐車場の脇になります。
碑文は
 
  石堂は博多七堂の一に数えられ袖の湊の中に石があったことから中石堂町と云う同町の東端石堂御門に近いところに周防の大内殿の探題館が設置されたので官(館)内町ができた 石堂の者豊臣秀吉の博多町割に参画した功績により博多山笠に石堂流の称号を与えられた又同町に石堂天満宮と袖の湊の守護神石堂神社(宗像神)があった  
  現在の恵比須流の区域になりますばってんが現在山笠には参加しとりません。
中石堂ていうぐらいやけん「上石堂」やら「下石堂」やらあってもよさそうばってんがその町名は見当たりませんもんね。

旧中間町は大半が大博通で消滅しとります。
 
 
 
  綱敷天満宮  
  中石堂から大博通りば渡ったら「綱場町」に入りこの町には「綱敷天満宮」があります。綱敷天満宮の詳しかことは「福岡市文化財保存課のホームページ」ばご覧ください。  
 
 
  横筋のここまでが「恵比須流」の区域ここから先は
「大黒流」の区域、
 
 
 
  鏡天満宮  
  綱場町抜けたらホテルオークラと博多リバレインが見えてきます。
この辺りは大昔「袖の港」て言いよったところで入り江の渕で現在は博多川に突き当ります。
昔は中国からの船着き場やったけん「渡唐口」の碑が建っております。
旧川端町・下新川端町(現下川端町、現在川端町と言う町名はありません)になります。

昔はこの辺りに大水道の出口のありました。
ここホテルオークラの脇にあるとが「鏡天満宮」です。
菅原道真が博多に到着した時に鏡で姿ば映した場所で、そのときの鏡ば御神体としとります。

この辺りは昔の旧町で言えば「川端町」「下新川端町」の区域です。この東側の現在の川端商店街が「川端中央街(旧東下新)」になりその丘側から「土居流」の区域
 
 
 
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  「旧博多六町筋」ば歩んでみました。横筋の流、「恵比須流」「大黒流」の一部の区域ば通ってきました。
今度は川端から櫛田神社方面さぃ歩んでいきましょう。縦筋川端通から土居通りば御紹介します。 
 
   
 
 
  川端通  
  昔は鏡天満宮あたりから櫛田神社くらいまでは入海でした。
須崎町辺りは海岸で漁師町で川端町あたりから川沿いの町が開けました。
片側が岡で片側が川やけん昔は「片原町」て言われよりました。
一番北側(浜側)が川端町その岡側が下新川端町、東下新(現川端中央街)、上新川端町、川沿いにお櫛田さんの裏門まで通じとります。
 
  川端町の横筋に伸びるとが博多六町筋の最後「麹屋番筋」です。
その岡側の横筋が新道(寿通)現在は博多座・リバレインで大半は無くなりました。
ここは現在の旧寿通。ここにアーケードがあり飾り山笠も建ちよりました。
 
 
 
  博多水道が古くなりそこに蓋ばして住民が住み着いたとが新道て言われのちに寿通商店街には発展しました。この先に見える縦筋(画面では横筋)が土居通りです。
そこまでが大黒流の区域です。そしてこの右側は片土居町(土居流)。
大黒流はここが土居流との境界やけんいまでも流舁では入軒引き換えしばします。
他流にお尻ば見せたら失礼ですけんね。
 
 
 
  旧川端町から下新川端町に続く縦筋、左側、現在は博多座です。  
 
 
  旧川端町と旧下新川端町は都市開発で博多座・リバレインホテルオークラが建ち町は姿ば消してしまいます。
この左側が明治通り(旧電車通り)。以前は大黒流はここと対馬小路の2か所で電車道ば横切りよったけん良ぅ台足ばおしょりよったです。
 
 
 
  明治通りば渡ると川端中央街、以前は東下新川端て言いよりましたばってんが現在は「川端中央街」大黒流では通称「川中」て呼称しとります。
明治通りから一筋目までが川端中央街でここまでが大黒流の区域です。
そいけんここでも大黒流の流舁では入軒引き換えしばしております。
 
 
 
  ここから岡側が「上新川端町(上川端通)」土居流区域になります。
ご存じ商店街独自で動く飾り山笠ば建てる町です。

以前はこの川端通は衣料品屋さん仏壇屋さん等が多かったばってんが現在は飲食店(特にラーメン屋さん)が多くなってきて八百屋さん魚屋さんコンビニまで見られるごとなりました。
上川端通のドン付きは右手にキャナルシティに通じるエスカレーター、左側は櫛田神社の裏門になります。その昔はここまで入海で船着き場があったようです。
そいけんお櫛田さんの門からは階段で数段川べりへ降りる名残が今も残っております。

裏門から入って境内の夫婦恵比須神社のわきに「切木のぼたん」があります。
 
 
肥前の殿様の奥方に太閤秀吉が横恋慕して手出そうとしたばってんそれば拒んだけんその殿様は流刑されたとです。秀吉の女癖は有名ですけんね。
それば知り土地の人たちは殿様の奥方が好きやったボタンばこっそり持ち出したとです。博多のもんはその話ば聞いて供養のため今も山笠の飾りに使いよります。それが「切木(きりご)ぼたん」です。
 
 
 

 
  土居筋  
  裏門から入り正門から出ると、お櫛田さんのおひざ元が南北に延びる土居筋(土居通り)です。
川の氾濫ば防ぐために土嚢ば積んだとこからが名の由来て聞いとります。
追山で舁山七流がずらりと整列する場所で有名ですね。
 
   
  ここが一番山笠の山留め位置です。現在はプレートが取り付けられとります。

土居流は岡側から「大乗寺前町」「上土居町」「中土居町」「下土居町」と続きます。七番山笠の待機位置は上土居、冷泉公園横あたりです。
下土居の浜側が昭和通り(旧称50m道路)ば挟んだ「行町(ぎょうのちょう)」
古門戸町と一緒で昭和通りで町の大半が消滅しました。
 
 
 
  旧行町に現在碑が立っています。これは市内電車が廃止された折、電車道の敷石ば利用して博多の旧町名ば説明したもので博多の街角に設置されとります。
もともと東長寺はこの辺りにあり勤行の声がいつも聞こえるまちやったけん町の名が「行町(ぎょうのちょう)」になったそうです。
 
  行町の浜側に位置するとが濱小路、縦筋ばってんがもともとはこの小さな路地が始まりやそうです。  
 
 
  昔は食堂、八百屋さん、床屋さんやらで賑おうとりました。
あたきもこの路地の八百屋さんにお使い行かせられたりここの床屋さんで髪つんでもらいよりました。
 
  その浜側が「西方寺前町」。名前の通り今でも西方寺があります。
その昔はこの辺りが博多の北限で海岸線でした。
そいけん追山のコースも西方寺手前の横町筋から左折して濱小路に入った後、行町で右折し対馬小路筋に右折し中対馬小路で左折し洲崎の廻り止めに向かう順路になっとるとですね。
 
 
 
 
 
  対馬小路筋  
  昭和通りホテルオークラの向かい側、太兵衛寿司さんから浜に向かって伸びるとが「対馬小路筋」。追山で最後に北進するところが旧中対馬小路町。
博多七小路の一つです。
 
   
  昔、この突き当りの浜に対馬藩の倉庫やら屋敷が有った事に由来しとります。
※上図で「秋四郎稲荷神社」て書いてあるところです。

現在旧対馬小路筋は古門戸町・須崎町の区域にあたります。
現在の対馬小路は元大下(おおじも)浜て言われよったとこでもともとは博多湾の浜辺にあたるとこです。
現在の対馬小路には「博多中学校(旧博多第二中学校)」がありますばってんがもともとここは黒田藩の舟入やったとこ。西公園あたりにもあったばってんがあっちは軍用船の舟入でここは商用の舟の舟入でした。

大昔は横町筋から北側は海やったとがわかりますね。

昭和の時代までこの浜沿いに天神から対馬小路、石城町、箱崎方面に西鉄電車が走りよりました。(大昔天神辺りは海の中でした。)

現在の対馬小路筋、この交差点の横筋が横町筋(恵比須流の横町から伸びた筋)、
ここから追山は左折して廻り止めに向かうところです。
旧対馬小路町は上・中・下の長い筋で博多で一番人口が多かった町です。
旧中対馬小路には現在「沖浜稲荷神社」がありますがここはオッペケペの川上音二郎の生誕の地でもあります。
この旧対馬小路筋は現在、浜に向かって右側が古門戸町左側が須崎町になります。
 
  旧中対馬小路からまっすぐ下れば旧下対馬小路。
旧下対馬小路には「黒田稲荷神社」があります。1799年に福岡城内にあった社ば勧請したけんのちに黒田神社て呼ぶごとなったげなデス。
戦災で焼失したばってん現在もひっそりと祀られ脇には戦災でなくなった方々ば弔う戦災地蔵尊も祀られとります。
 
     
   
  旧対馬小路の博多川側は現在「須崎町」となっとりますが昔は洲崎町、博多川沿いば鰮町て言いよりました。
その反対側の縦筋が古門戸筋、岡側から旧古門戸町、妙楽寺新町、妙楽寺町がありました。旧妙楽寺の浜側に明治以降「倉所町」がありました。
妙楽寺町はその昔ここに妙楽寺があったことから名の由来。その境内に古門戸町があり古門戸町は幕藩時代は会所・馬継所がありました。

昭和通りから古門戸筋方面。古ノ一のメインストリートです。この右側は土居筋。

この奥に倉所町。秋月藩の倉元があったことから妙楽寺町から独立して起こった町で現在は「秋四郎神社」があり倉所の碑も建立されております。
 
 
 
  博博多中学校、旧博多第一中学校と第二中学校が統合されて「博多中学校」になりました。現在、体育祭では自分たちの手で舁山ば作って校庭ば舁回っております。
旧大下(下対馬小路よりもっと下の意味です。)と言われたところ。
 
      
  この博多中から昭和通りまで続く縦筋が旧鰮町と旧洲崎町です。現在は全区須崎町となっています。  
 

博多川沿いの旧鰮町あたり

旧洲崎町あたり、突き当りが廻止め
 
  旧鰮町・洲崎町は縦横に狭い路地が立て込んどりますばってん大黒流の流舁はそのほとんどすべてに舁入れます。
現須崎町の路地には屋台の駐車場もありますよ。。
 
 
 
 
 
  さてここまでは恵比須流の一部・土居流・大黒流の区域ば歩んできましたばってん
次は東流・西流の区域です。
この二流は旧呉服町流・福神流の一部も含んどりますけんややこしかですぞ・・
 
  つづく  
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