博多大黒流
    このいちへようこそ    
  このサイトは他のサイトにあるような博多や山笠の紹介ページとは違います。
博多の山笠に参加する若っか人に見てもらいたいって15年以上前に立ち上げたサイトです。
博多でも一番古うからの山笠関連のサイトて自負しとります。
ばってんが管理人はいっちょん成長しとらんけんこらえとってください(>_<)
博多山笠は流て言う町組七流で行われるとですが一つの流も十数ケ町の集合体で運営され
そのそれぞれが独自の自治で執り行っております。
その山笠の中でちゃ一番小さな組織の一つ、「町」のサイトです。
そいけんよそでは書かれんマニアックな(山笠起源の真実やら)内容まで書き込んどります・・
ばってんが町の公式サイトではありません。「ちどりあし」っていう山のぼせが個人的に
所属する町の紹介としてあえて博多弁で運営するサイトです。
WEBサイトの専門家や無かけんサイトデザインやらはこらえとってください。
ばってんが中身(今風に言うたらコンテンツ)は奥が深いですバイ!

令和五年大黒流標題 薫風来(くんぷうらい)
人形師は当町古ノ一所属の博多人形師(伝統工芸士)で山笠人形師の「西山陽一人形師」です。

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 令和五年度の大黒流、松囃子世話当番町は麹屋番、山笠世話当番町は下新川端です。

博多では天正15年の太閤町割以来から商人の町、自治組織としての「流」ていう町組が存在していました。これは市名に基づく福岡部にはない組織です。太閤町割以前から筑前博多は日本最古の「クニ(奴国)」として栄え自治の元、日本の外交の中心として栄えて来ました。そのためその地の利から戦国大名の係争の地として取り合いになり博多は幾度となく焼け野原になりました。
島津軍が撤収した後、秀吉は筥崎宮に逗留し九州ば静定、博多を七つの「流」というブロックに分けてそれぞれに自治を任せ博多の町ば作りあげました。これが博多七流の始まりです。
黒田藩政の時代は町奉行の配下に年行司という役職がありその下にいくつかの町の集合体である「流」というブロックで自治組織ば形成してきました。
その中で「祭り(山笠・松囃子)」もその流単位で執り行ってきました。
このサイトはその博多の町の一つの流「大黒流」の区域内の「町組」の一つ「古門戸町一区(通称古ノ一)」のサイトです。

世話当番町の元、毎年大黒流12ケ町は力を合わせて山笠ば奉納します。
このサイトはそげな博多と古ノ一ば紹介するサイトです。
 
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このサイトは古ノ一の運営では無うて「博多のおいしゃん」個人のサイトです。