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博多と福岡
 
 
ここでは福岡以外の人が疑問に思う双子都市「博多」と「福岡」について
説明ばしていきまっしょうかね・・  

博多の歴史福岡の由来江戸時代の博多と福岡廃藩置県福岡市誕生

  博多の歴史
上の写真ば見て見なっせ・・・
大昔もともとこの全体ば「博多」て言いよりました。
それは鳥が羽根ば広げた形に似とうけん「羽形(はがた)」から来たて云う説の
ありますと。写真左上、海に突き出した砂州が志賀島(漢倭那国王の金印の見つかったとこですね)、写真では映っとらんばってんがこの左側の「姪浜」辺りまでば広い意味で「博多」て呼んでおりました。
ここから南さぃ広がる筑紫平野に倭国で初めての「クニ(奴国)」が出来その海岸線の一帯ば「博多」て言います。時代は弥生時代。
金印は当時の中国から「奴国」ば日本の「王」として認めるて言う証の印鑑です。中国の歴史書『後漢書』に、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書いちゃって、この「印」が志賀島で見つかった金印とです。

歴史ば戻して663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦で破れた倭国は大陸からの反撃に備えて大陸との戦の最前線として「大宰府(今で言う外務省?)」ば設置しその横手の山に「大野城」ば築き水際の堤として「水城堤」ば築きました。幸いに攻めてこんかったばってんがこの時、壱岐やら能古の島に「防人」ば配置しのろしで知らせる仕組みば作っております。
その後、大陸からの使者ば接待するとが平和台球場跡地から発掘された筑紫館(つくしのむろつみ)のちの「鴻臚館」ですたい。鴻臚館はいわば外国からの商人の入国審査のごたぁ役割、やがて鴻臚館は役割ば終え(平安時代中頃、放火で焼失)外国との交易の拠点が博多に移ってきます。
日宋貿易(博多綱首(こぅしゅ)の時代)で栄え、日本最初の「チャイナタウン(唐房)」ができたほど。その後、博多豪商たちによる商業の町、自治都市として栄えて来ました。

大陸からの文化はすべて「博多」から入ってきたとです。
茶、蕎麦、ういろう、饅頭もすべて博多が発祥て言うとはそれがあるけんで
こっから日本全体に広がって行ったとですね。
「年越しそば」も博多の「運そば」が始まりて言われます。
これは「博多祇園山笠」の始まりにも起因しますとですばい。
飢饉で食べもんが無うて人々が飢えで倒れていくとき大晦日に博多綱首たちが蕎麦がきば櫛田神社と承天寺で振舞うたていう歴史のあります。
その恩で博多のもんは追山で櫛田神社と承天寺に舁入れるごとなったとです。
その後、1200年代「元寇の役」でも博多は戦場になります。

これは昔の博多津と冷泉津、上の方に防塁が見えます。
※福岡市博物館の展示から
その後も群雄割拠の戦国時代に突入し各豪族の領地争いに巻き込まれ幾度となく戦火に見舞われるとです・・
※大宰府(だいざいふ)今は地名になっとりますばってんがもともと大宰は地方ば納める役職名ですったい。地方行政長官みたいなもんです。その下の役職に「少弐」やらの有りまして元寇の役の時活躍した「少弐 景資」やらの「少弐氏」は古くから大宰府の役職ば務めた地方豪族の名門やったとです。

福岡の由来
福岡の歴史は博多に比べま〜だま〜だず〜と浅かとです。
この辺り戦国時代は「筑前」ですね
※「羽柴筑前の守秀吉」やら聞きまっしょう?あれは勝手に信長からステータスとして名前ば貰うただけで実際に筑前ば統治しとったわけぁ有りまっせんとよ。

この筑前はその地の利もあって周防の「大内氏」やら豊後の「大友氏」の領地として取り合いされてきた歴史のあります。秀吉の「九州平定」の時は「大友氏」の出城として「高橋・立花」の両氏がおさめとりました。高橋招運は「岩屋城」戸次 鑑連(のちの立花道雪)と招運の息子で養子の立花宗茂は立花城ば守っとりました。島津の軍勢に秀吉の援軍ば求めるも高橋招運は「岩屋城」で壮絶に討ち死にこの辺は「吉塚」のページもご参考に。
「嗚呼壮烈岩屋城」の碑が今も城址に建っとりますもんね。
遅まきながら秀吉の大軍勢が島津ば追い払いその九州平定の恩賞として「筑前」ば「小早川隆景」が貰いますと。
もともと瀬戸内の水軍らしゅう水際の「名島城」に入城し改築します。
秀吉没後、家康が台頭してきてあの1600年の「関ヶ原の戦い」で東軍について功績ばあげた「黒田長政」が筑前ばその恩賞として貰い福崎に福岡城ば築きこの地ば、父「官兵衛(如水)」の出身地である「備前国福岡庄」にちなんで「福岡」て名付けたとです。
※福岡城は一部名島城の石垣やらば移築して完成させたて言います。城の堀の一部は今では市民の憩いの場「大濠公園」になり掘った土ば盛ったとが今の「西公園」になっとります。
これが「福岡」の名の由来ですたい。まだ500年も経っとりません。
それ以来、江戸時代になり黒田藩がこの地ばやりくりするごとなっても武家の町「福岡」と商人の町「博多」の二つの地域が同居するごとなりますったい・・

江戸時代の博多と福岡
昔から博多の商人たちはおかみに建てつくこと無く穏便に受け流してやりくりしてきました。博多には町が約30福岡には約100の町があってその各町の代表ば「年寄」て言いそれらの首長と町奉行の間に入った人ば「年行司」て言います。
昔からの経験で博多の町は自治の力で守る、博多はいくつかの町組ば七つの「流」に分けて自治ば行い、それが山笠の自治の縦社会ば築いたとです。

博多のもんは正月はおかみに御機嫌伺いして酒肴ば振舞うて貰う
それが「松囃子」です。
殿さまにしてみれば領民にどれだけ慕われとうか?ていうバロメーターでもあったとですね。
一時期博多のもんが松囃子の行列で道ば塞いだ武士と小競り合いになって武士ば馬から引きずりおろし殺してしまう事件のあって以後「松囃子」はご法度の時代ば経験します。
博多のもんのやりそうなことですね。
松囃子と山笠のことば記録した「松山遺事(まつやまいじ)」見たら昔も今も博多んもんは変わり映えせんとの良うわかります。無礼講の城内の振舞い酒も我先に取り合いで終いにゃ柄杓も折れてしまう程やったげな・こげな光景今の松囃子(大黒流だけです)でもお馴染の光景です。城内からの帰り道、福岡部のもんと「古門戸町」が喧嘩したやらの記述も見られます。そげんとこに我が町の名前の出てくるとはち〜とばかし恥ずかしかやね・・・

筑前名所図会に書かれた松囃子
※福岡市博物館の展示から


廃藩置県
時代は変わって大政奉還、小早川の時代からお殿様に御機嫌伺いに行きよった「松囃子」も天皇様の時代やけん明治5年廃止令の出ますったい・・・
それが「どんたく」に名前ば変えて今に伝わるとは「松囃子」のページば見てつかあさい。

福岡市誕生
幻の「博多市」
福岡市ば博多市へ市名変更の案が出されました。当時の市議会のメンバーは博多の市議が過半数ば持っとりましたけん当然市の名前が「博多市」に変わるとは歴然やったとです。それでたかくくった市議の一人は議会ばほったらかして東京出張、その他の数人は現在の右翼の原型となる藩士崩れの「玄洋社」に拉致されとったゲナです。それで13(博多):13(福岡)になり決定権もった最後のひとり福岡派の議長が一票ば入れて市名変更ならず「福岡市」に決定してしもうたとです・・・・

これにはらかいたとが博多んもん・・
当時は商業都市博多が経済ば握っとったけん博多んもんは「そげなことなら税金払わん」て一大ボイコットしたとですね。
治まりのつかんけん当時の初代市長「山中氏」始め政府の関係者までもが事態ば収拾しにくる騒動。当時の財閥「渡辺与八郎」さんとこに断りに・・・
その行く道には博多んもんが斧やら持って殺気立っ取ったて言います。
片や那国の時代からの博多とたかだか数百年の福岡、その決定はまったくもって許しがたかことやったでしょう。ばってんが話聞いた「与八郎」さんは福岡の経済発展ば優先ししぶしぶ納得し、その後、市内電車ば作ったりして福岡の発展に寄与します。
その名残が今の天神から南さぃ延びる「渡辺通り」の由来です。
市の名前ば「福岡」に譲ったけん国鉄の駅名は「博多」にせれて言うてでけたとが
今の博多駅ですたい・・・・今の博多駅とは場所も違い祇園町んとこに博多駅はありました。現在の「ファッションビル」のとこですね。

永らく市の名前と駅名が違うとは「博多」だけやったとです。
※福岡の交通ば一社でカバーする「西日本鉄道」福博の町には「西鉄バス」がうようよしとります。その西鉄が福岡と太宰府やら大牟田ば結ぶ電車「西鉄大牟田線」の始発駅が「福岡駅」であります。
そいけん福岡に来たっちゃぁJR福岡駅はありまっせん。
(JR南福岡駅はございます)

福岡市のJRの駅は「博多駅」ですけんね・・・・
 
 
 
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